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木下梅里

2015年10月23日

木下 梅里(きのしたばいり、1823-1897)

木下梅里は、1823(文政6)年、木下い村の18歳年下の弟として今村に生まれました。

幼い頃は渋江涒灘(しぶえとんだん)に、後には時習館教授の近藤淡泉(こんどうたんせん)に教えを受けていますが、それ以上に兄い村からの影響が大きかったようです。「昔から学問を志す人は遠く故郷を離れ、千里の道でも笈(きゅう、本箱)を背負って良師を求めたものである。それでも普通、簡単には見つからないのに、自分にはわが師として肉親の兄がいる。こんなに幸せなことがあるだろうか」と絶大な信頼と敬意を兄にささげていました。

梅里の人柄について、い村は「幼い頃から読書を好み、口下手だが素朴で情が厚い」と記しています。実際、24歳の時に父が病に倒れると、褒賞を受けるほどの優等生であったにもかかわらず、藩校「時習館」への出席を辞めて故郷へ帰り、懸命に父の看病をしています。父はこれを喜び、梅里に塾を開く場所を提供したので、「古耕精舎」(ここうしょうじゃ、今村塾)という塾を開きました。以後22年にわたり梅里はここで漢学・和学を教えましたが、門下生への指導は極めて手厚く、話し過ぎで喉から吐血しても講義を続けるほど熱心だったと記録されています。

45歳の時、時習館訓導(くんどう、教官)に任命されたので、古耕精舎は弟子の武藤環山(むとうかんざん)に任せて熊本に出ました。その後1871(明治4)年、49歳の時、廃藩置県を機に一家で上京し、中央の官僚を務めています。梅里は1897(明治30)年、75歳で亡くなりました。城山公園にある頌徳碑は、弟子達がその徳を慕って建てたものです。

木下梅里碑の写真

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