城野 静軒(きの せいけん、1800-1873)
城野静軒は隈府中町に生まれ、名を充通と言います。幼い頃から学問を好み、渋江松石(しぶえしょうせき)や桑満伯順(くわみつはくじゅん)に師事しました。静軒は書道にとても優れていて、研鑽を重ねて一流と呼ばれるようになりました。その名は藩のなかでも広く知られるようになり、細川家や細川藩家老有吉家の子息の書の指導も任されるようになりました。
静軒の書の腕が世に知れ渡ったエピソードの一つに、細川藩の軍艦「龍驤丸(りゅうじょうまる)」のことがあります。幕末、海軍力を重視した細川藩が1866(慶応2)年に作らせ、この船体に入れる「龍驤丸」の文字を公募しました。書に自信のあるものが多数応募するなかで選ばれたものこそ静軒の文字であり、これによって静軒の書家としての地位は不動のものになりました。
その一方、静軒は武芸にも大変秀でており、剣術、体術、射術ほか武技全般を修め、武術でも多くの弟子を取りました。
また、静軒の業績は書や武術に留まらず、社会救済の分野にまで至りました。地域の賛同者十数名とともに「節倉」という組合を立ち上げ、互いに倹約しあって貯蓄したお金で毎春菊池一族の祭礼を行い、組合員の不慮の災難や飢饉の際に困窮した人々へ手当てを施すなど、独自の救済組織を築いたのです。このことが藩にまで聞こえ、褒章を受けたほどでした。
このように静軒は様々な分野に優れた人でしたが、その人柄はとても陽気で、筆を執るのは大抵愉快な気分の時でした。死の間際にも数十字を書き、書き終わって筆を置き、「愉快!」と叫んで息を引き取ったといいます。
明治6年8月2日、静軒は74歳でその生涯を終えました。墓は隈府の西照寺にあります。
▲城野静軒肖像画(熊本博物館所蔵)
▲城野静軒の筆による迫間橋の標柱