伊牟田 泉(いむた いずみ、1817-1892)
江戸末期から明治のはじめ頃の菊池では、歴代渋江塾が私塾教育の中心を担ってきましたが、渋江晩香とほぼ同時代に、泗水地域にも数百名の塾生を抱える私塾がありました。
伊牟田泉は菊池郡田島村(現在の泗水町田島)にある田島菅原神社の神職であり、この地に私塾を設けて地域の教育に尽くした人物です。名を直冶と言いました。
伊牟田は神道家として名を馳せた人で、1839(天保10)年、23歳のときに細川藩主をはじめ九州の諸大名にまで招かれて神道の講演を行い、後に九州における尊皇攘夷運動を牽引する役割を担うまでになりました。
伊牟田は和学、漢学に秀で、門弟の教育に非常に熱心だったため、評判を聞きつけて諸国から多くの者が学びに来ました。1848(嘉永元)年には私塾「清乃屋(きよのや)」を開き、漢学・筆道、算術を教えていますが、遺されたテキストの内容から、その教育課程は初等から中等にわたっていたものと推定することができます。
伊牟田の評判は藩庁にまで聞こえ、1851(嘉永4)年、35歳のとき、金百疋(ぴき)を授与されています。その翌年には塾舎を新築しているのですが、その用材は八代城主長岡佐渡から給付されており、このことから更に名声が上がって門弟が急増し、五百人を超える門弟たちが日夜勉学に励むという盛況振りでした。1855(安政2)年3月には、業績が評価され、藩主より毎年米5俵を給付されるまでに至りました。清乃屋はその後、伊牟田が68歳になった1884(明治17)年まで、多くの門弟を育て続けます。
1892(明治25)年、神道の研究と門弟の教育に人生を捧げた伊牟田は、76歳でその生涯を終えました。
▲伊牟田 泉
▲田島菅原神社横に建てられた伊牟田家の碑