渋江 晩香(しぶえ ばんこう、1832-1914)
「遜志堂」を創建し、43年間という長きにわたり、1500人もの門弟の教育に尽くした晩香は、教育者のほかに菊池神社の神職としての顔も持っていました。
1872(明治5)年、40歳の時、晩香は菊池一族を祀る菊池神社の、創建後2代目の神官になりました。もともと渋江家は代々天地元水神社の神職が家業であったことや、祖先の紫陽(しよう)、松石(しょうせき)が菊池一族の忠誠を世に広めるべく奔走したという背景から、晩香自身この抜擢には大いに喜んだとされています。1878(明治11)年に菊池神社が別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ、国家のために特別な功労があった人物を祀る神社)に昇格すると、晩香は禰宜(ねぎ、宮司に次ぐ神職)を務めることになりました。
この時期に、晩香は日本の歴史に関わる大きな出来事に遭遇します。時代はちょうど明治維新を経て、明治憲法が作られようとしていたさなか。晩香のもとに、伊藤博文の内命を受けて、密かにある政府の要人が訪れました。かつて木下塾で晩香と机を並べた、井上毅(いのうえこわし)でした。井上の目的は、菊池神社の御霊代として神殿深く奉祀されていた、菊池13代武重直筆の「寄合衆内談の事」(菊池家憲)を閲読すること。晩香は迷いの末、神の意思を問う儀式を行った後、これを井上に見せたと言います。任務を果たし東京に帰った井上は、明治憲法の発布後、晩香のもとに憲法書類を送付したのだそうです。
1908(明治41)年、76歳の晩香は、菊池神社第4代宮司に昇任します。実は晩香自身は、「菊池神社の宮司には菊池氏の血脈を引いた人が適当」として、一生禰宜として過ごすつもりであったといいます。しかし晩香の知恵や人柄、経歴などから、菊池神社関係者の総意をもって推薦されたのでした。老齢ながら晩香は、若い頃から鍛えた足で、神社への険しい山道を通ったといいます。
1914(大正3)年1月、晩香は教育者として、そして神職として菊池に尽くした82年間の生涯を終えました。
▲渋江晩香彰徳碑
▲菊池神社