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文教の偉人たち

Great Men of Letters and Education

渋江 晩香(1)

2016年04月26日

渋江 晩香(しぶえ ばんこう、1832-1914)

渋江晩香は、涒灘(とんだん)の三子で名を公雄、後に公木と改めました。豪放磊落(ごうほうらいらく)な兄、公穀(こうこく)とは対照的に、温和できめ細やかな人柄だったようです。

激動の明治を生きた晩香には、二つの顔がありました。渋江家代々の家業である教育者として、そしてこの時代に創建された菊池神社の神職として身を尽くした晩香。今回はそんな晩香の、教育者としての顔に光をあててみたいと思います。

幼い頃から晩香は、父涒灘のもとで教えを受けていましたが、14歳の時に父を亡くすと、父の教え子だった木下梅里(ばいり)に、後にその兄韡村(いそん)に師事しました。韡村塾に在塾していた25歳の時、肥後藩家老の家に招かれて以後7年にわたり教育係を務め、31歳の時には藩命により大津郷文芸指南役になりました。また、大津の地に渋江塾を開き、紫翠山房と名づけて教育に尽くしました。その後菊池に引き上げ、1873(明治6)年、私塾「遜志堂」を創建。1906(明治39)年に遜志堂が閉鎖されるまでの43年間という長きにわたり、実に1500人もの門弟の教育に尽くした人生でした。

「遜志堂」は、意欲がありながら中年まで学校に通えなかった人や、昼間は働き朝夕の空き時間に勉強したい人など、県立学校が出来てからも多くの勉学を志す人の受け皿になっていたようです。

名声よりも世のため人のために尽くした晩香の姿勢は、一つのエピソードに象徴されています。59歳の時、明治天皇の侍講(じこう、天皇の教育係)だった元田永孚(もとたながざね)が亡くなった際、熊本出身で後に総理大臣となる清浦奎吾(きようらけいご)によって次の侍講に晩香が推薦されたのです。しかし晩香は、この上ない栄達の機会を、「お志はありがたいが、不徳者で天皇の師となることはできません」と言って断り、生涯を故郷の教育と菊池神社の神職に捧げたのでした。

次回は晩香の、神職としての顔を追いかけてみたいと思います。


渋江晩香肖像画

 


 

▲渋江晩香肖像画(わいふ一番館所蔵)

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