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文教の偉人たち

Great Men of Letters and Education

渋江 龍淵

2016年04月26日

渋江 龍淵(しぶえ りゅうえん、1778-1854)

 渋江龍淵は松石の長子で、名を公隆(きみたか)といいました。文章の才能に恵まれた龍淵は幼い頃から勉学に専念し、若くして天草や島原を数年間漫遊しながら、各地で多くの弟子の教育に当たったと言われています。

 1815(文化12)年、37歳の時に隈府に帰ってきて、私塾「銀月亭」を開きました。菊池以外にも益城や玉名、宇土などから多くの門下生に経書や書道を教え、この評判から藩に「菊池郡文芸指南役」を任じられています。銀月亭の評判はますます高まり、多くの門下生が日夜龍淵のもとに通いつめ、勉学に励みました。このような龍淵の地方教育の功労に対して、1822(文化5)年、藩は報奨金を与えました。この年、晩婚だった龍淵は待望の長子、周蔵も授かっています。龍淵45歳の年でした。

 この後も龍淵は、藩の「竹迫会所」に通勤して武士階級の子弟の学問指導を行うなど、その名声を高めていきました。ところが、1829(文政12)年、そんな龍淵を悲劇が襲います。愛児、周蔵が、7歳の若さで亡くなるのです。その悲しみを振り払うかのように、龍淵はますます教導に力を入れ、翌年にもまた、藩から褒賞を受けています。

 龍淵と深い交流のあった人に、木下い村(サイト内リンク)(きのしたいそん)がいます。門外生として龍淵の指導を受けた韡村は、27歳も年下ながら、龍淵が亡くなった際、その碑文を記すのに最も適した人、と言われるほどの交流があったようです。その韡村の言葉を借りると、龍淵はさっぱりとして物事に拘らず、どこか達観したような人となりだったようです。

 そんな龍淵が晩年病に倒れ、死を目前にした時、一つの遺言を残しています。「私が死んだら大きな棺を作り、周蔵の遺骨と一緒に埋葬してほしい」

 享年75歳。周蔵の死から30年間、心中に偲ばせていた想いが推し量られるようです。遺言通り、龍淵は周蔵と共に合葬され、輪足山の渋江家墓地に眠っています。


渋江氏伝家の文教の写真

 


 

▲山口泰平氏「渋江氏伝家の文教」 


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