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文教の偉人たち

Great Men of Letters and Education

木下い村

2015年08月19日

木下韡村(1805-1867)と書かれた画像

 


 木下い村(きのしたいそん:犀潭:さいたん)は、1805(文化2)年に戸崎の農家に生まれました。幼いころから向学心が強く、はじめは細川藩侍医(藩主等の主治医)だった桑満伯順(くわみつはくじゅん)に、その後は藩校「時習館」(じしゅうかん)で学びました。時習館は、全国でも指折りの藩校(主に武士のための公立学校)でしたが、その時習館においても特に成績優秀だったい村は、22歳で苗字帯刀を許され、木下姓を名乗りました。

 31歳で細川藩主斉護(なりもり)の伴読(ばんどく:藩主に寄り添い書物を読む役)に選ばれ、以後参勤交代ごとに藩主に従い、江戸と肥後を往復しています。35歳の時には藩主の後継である慶前(よしちか)の伴読となり、以後9年間にわたって教育にあたりましたが、1848(嘉永元)年、慶前は若くして亡くなります。い村にとって慶前を失った悲しみは耐えられないもので、身も心も衰弱してしまったと伝わっています。

 翌年、病を克服したい村は45歳で時習館の訓導(くんどう:教官)に任命され、5年後には君主の講義役である侍講(じこう)を兼務するまでになりました。同年熊本市内に私塾を開くと藩の内外で評判になり、20年間でい村を慕って900人以上の門弟が集まったのです。木下塾は、明治維新前後に各方面で活躍する優れた人材を多く輩出しています。

 1863(文久3)年、い村を高く評価していた幕府は、幕府の直轄校である江戸の昌平黌に教授として招きますが、い村自身は、まだ藩公の御恩に報いていないとしてこれを断ります。

 礼儀正しく誠実で、情愛深かったい村は、1867(慶応3)年に63歳で亡くなりました。


熊本市にある木下塾跡の碑の写真

 


 

▲熊本市にある木下塾跡の碑

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