「嶋屋日記」の中には、「浄瑠璃」「操(あやつり)芝居」「相撲芝居」などさまざまな形で芝居が登場します。京都・大坂などの遠方から竹迫などの近隣まで、日本各地から演者が訪れ芸を披露する様子をご紹介したいと思います。
「嶋屋日記」三冊目、天明元年(1781)五月五日の項には、京都の浄瑠璃語り藤兵衛が宗伝次(「嶋屋日記」筆者の一人)の元へ訪れたことが書かれています。実際の心中事件を基にして作られた浄瑠璃「梅川忠兵衛」など複数の演目を奏し、とても繁昌したそうです。興味深いことにこの浄瑠璃語りの藤兵衛、本業は京都の縫物屋であったとか。「縫もの極々の上手也」と書き残されています。
同じく天明元年の七月には西覚寺で「アヤツリ」(人形浄瑠璃)が行われました。松囃子の翌日開催という日程の影響もあったのでしょうか「見物二千五百余有之(あまりこれあり)」ということで、かなりの人出だったようです。こうして寺社で行われる芝居は勧請興行の一環と考えられ、その多くが寺社の敷地内で演じられていました。西覚寺の他にも東福寺、玉祥寺、正観寺や山鹿の円頓寺などでも定期的に催されていたことが日記の記述からうかがえます。
他に、天明五年(1785)には大坂から来た浄瑠璃語り貞就(さだなり)という人物が登場します。「引語(ひきがたり)・三味せん無類之上手」で、その腕前は「聞人耳をおとろかす」ほどだったため、演奏の後に隈府の宗文五郎方へ逗留してもらい、文五郎は浄瑠璃と三味線を教わったそうです。
このように、芝居が日常の中に組み込まれていた様子が「嶋屋日記」の中ではたくさん描かれています。ここに挙げたもの以外にも芝居にまつわるエピソードが載せられているので、菊池デジタルアーカイブ(https://da.library-kikuchi.jp/)でぜひご覧になってみてください。