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「嶋屋日記」の風景

Scenery of "Shimaya Diary

「嶋屋日記」の石橋

2018年08月24日

橋の架設は一大事業であり、人々の生活の要となるものです。近世、肥後の石工は全国的に見てもレベルが高く、菊池市内にもいくつもの石橋が残されています。

二行目に「永山村石橋」と記述されている「年々鑑」の写真

 


 

「嶋屋日記」7冊目「年々鑑」には、文政6年(1823)12月4日永山橋にて行われた「渡り初め」について書かれています。「渡り初め」とは、橋が落成した際に行う式典のことで、高齢の夫婦や親・子・孫三代夫婦の揃った一家などが橋を渡ることが多いようです。日記の記述を見てみると、今村から「一家内より夫婦三人完(かん)出ル」一つの家族から夫婦が三組と、「赤星村徳平九十四才」94歳という長寿の方が渡り初めを行ったようです。

橋が永久に続くようにとの願いを込めた儀式でしたが、その甲斐もなくこの橋は文政12年(1829)5月の洪水で流失してしまいます。現在残っている橋は、その代わりとして明治11年に130mほど上流に架けられたものです。現代と違い、当時の橋は頻繁に大水で流れるなど維持の難しいものでした。そのため「渡り初め」の他にも「橋堅メ」(橋を守る儀式か)についての記述は多く、永山橋では他に「堅メ踊り」、藤田河原橋(相生橋)では芝居興行を行っていたとあります。

架橋の際には、工事を行う大工・石工の他にも経費集めや管理を行う役人の存在も不可欠になります。現在、永山橋とともに県指定重要文化財に指定されている立門橋について、日記には野津手永の石工とともに庄屋などの役人名が併記されています。こういった多くの人々の尽力の結果、今に残る立派な石橋が架けられました。200年程前の日記に書かれた記述が現在の橋の姿と重なり、当時の思いが浮かび上がるようです。

菊池デジタルアーカイブ(https://da.library-kikuchi.jp/)では「嶋屋日記」全丁、永山橋・立門橋の写真を公開しております。ぜひご覧になってみてください。

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