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日本遺産

Heritage of Japan

深掘り!菊池川流域日本遺産エピソード~伝説と文化をたずねて~⑥【灌漑施設】

2026年09月01日

菊池川流域の米作りを支えているのが、溜池や用水路(井手)などの灌漑施設です。これらの施設によって水を安定的に得られるようになり、米の収穫量は大きく増加しました。このため、溜池や井手のある地域の多くでは、現在でもその恩恵に感謝して祭りが行われています。

・遠山神社例祭/湯の口溜池(山鹿市蒲生)

湯の口溜池を作った遠山弥二兵衛に感謝するため、地元の水利組合によって毎年4月4日に行われているお祭りです。当日は溜池の横にある遠山神社に関係者が集まり、神事を行います。

・御宇田どん祭り(殿さま祭り)/御宇田井手(山鹿市鹿本町津袋)

井手を作ったとされる御宇田光重の業績をたたえて、その墓所に地元の人々が集まり、井手に対する感謝と豊作を祈願する祭りです。毎年田植えが終了した7 月下旬に行われています。

 

菊池市旭志の湯舟集落の南東、標高200メートルの高地に湯舟溜池があります。嘉永6年(1853)に麓の湯舟・高柳・小原などの水田の灌漑用として溜池を造ることになりました。溜池の建設は、大津手永の惣庄屋山隈権兵衛の指揮のもと行われましたが、なかなか工事が進まず、梅雨時には堤防が切れて湯舟が洪水の被害にあうこともありました。

そのようなことから工事完成を祈願するために、人選を行って人柱を立てた逸話も残っています。総指揮者であった権兵衛は工事の途中で病死し、息子の新左衛門が後を引き継ぎ、溜池は安政2年(1855)に完成しました。溜池は現在でも78haの水田を潤しています。かつては人柱の供養塔があったとのことですが、現在は不明です。

 

コラム〝水争い〟とは?

中村・山鹿手永では、菊池川や内田川、溜池や井手を利用しながらも、毎年夏に水利権争いが絶えませんでした。特に大正5年(1916)に起きた中富地区(山鹿市鹿本町)分田 と川崎両地区の水喧嘩は、大規模なものでした。分田側が水路の堰板を無断で外したことが発端で、川崎側が水路をせき止めたことで対立が加速。両部落は夜を徹して石を投げ合い流血の惨事となって、警察署の巡査部長も負傷しました。さらに近隣の米田村住民も加わり、堰を破壊するなど大混乱に。騒ぎは警察の応援で収まり、関係者約80名が取り調べを受けました。取り調べられていた収容者が50日後に戻ると村は凱旋兵士のように大歓迎で迎え、はやり歌まで作られました。



まつり(灌漑施設)1  



遠山神社例祭の様子

 
 



まつり(灌漑施設)2_   遠山神社例祭の様子


 



まつり(灌漑施設)_湯舟溜池   湯舟溜池


 




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