藤尾支石墓碑の概要
昭和32年(1957)8月、この地域の調査をしていた佐賀大学生らが地元住民の案内で発見し、当時の旭志村長中尾卓男を団長、熊本県文化財専門委員坂本経堯(つねたか)氏を主査として調査団が結成され、同年11月に発掘調査が実施されました。行政、議会、青年団、婦人会、中学生などの各種団体による村を挙げての発掘調査は、当時県下では最初で話題となりました。発見された遺構は支石墓9基、積石墓4基、甕棺墓2基でした。その調査成果をもとに、昭和34年10月に旭志村指定文化財となりました。
支石墓とは?
支石墓とは、数個の支石の上に大きく平らな天井石をのせたお墓のことです。藤尾支石墓群は天井石がとても低いタイプで、平らな石が地面に点在しているようにも見えます。世界各地には巨石をお墓とする風習が数多くありましたが、日本の支石墓は、縄文時代の終わりから弥生時代の中ごろにかけて九州北部に分布しています。藤尾支石墓群で出土した甕棺は黒髪式土器という土器の型式のころのもので、弥生時代中ごろにこのお墓が造られたことがわかります。
交流の証
このころ、朝鮮半島でこの支石墓の風習が非常に盛んだったことから、朝鮮半島から伝播した墓制と考えられています。旭志の山中に支石墓が存在するということは、約二千年前の弥生時代から、私たちの祖先が大陸と交流をしていたことの証といえるでしょう。