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菊池の宝物

Treasures of Kikuchi

鞠智城跡と菊池一族の関係

2017年03月01日

鞠智城跡を南西上空から撮影した写真

  


 

鞠智城跡の概要

鞠智城跡は白村江の戦い(663年)での敗戦の結果、唐と新羅連合軍が日本に侵攻した時の防衛目的で築造された古代山城の一つです。鞠智城跡の最新の調査成果がまとめられ、総括報告書が刊行されました。その報告書で、7世紀後半から10世紀後半まで鞠智城は存続していたことが述べられています。城の終わりの時期が以前の考えよりは新しくなりました。鞠智城の終末期の役割は当初ものから変化していました。それは米を貯蔵する倉としての役割が中心になっていました。


菊池氏のおこり

菊池氏の起源については、かつては11世紀初め大宰権帥として赴任し、寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇を防ぎ戦功をあげた藤原北家の隆家の子孫であると考えられてきました。その子孫は延久2年(1070年)ごろ都から肥後に出向き、菊池に住み着いたと想定されていました。最近の研究では、則隆や政隆は「肥後国人」と書かれていることから、肥後の武士団が菊池氏の祖であると考えられています。具体的には、九州の中心である大宰府の官人として勤めていた肥後菊池の役所の長官である郡司か軍団長の一族が菊池氏であると想定されています。


鞠智城跡と菊池一族

古代山城である鞠智城は律令体制の組織である大宰府の管理下にありました。鞠智城の終末期は米を保管する倉としての機能が主なものであるので、鞠智城と菊池郡の役所等とは当時の菊池郡内に存在しており、その関係はとても深いものでした。また、鞠智城跡の終末時期が以前よりは約100年長くなっており、菊池一族の発生時期と鞠智城跡終末との時間差が短くなりました。そうなると、鞠智城と菊池郡の役所と菊池氏の三者の相互関係は密接なもので、菊池氏の起源を鞠智城と関連するものと推定することができます。

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