歴史に名を刻んだ男達

平安時代に始まる、菊池一族の歴史。室町時代までの菊池氏の動きを年表にまとめました。
歴史の波にのまれた彼らが残した、確かな足跡をご覧ください。

※スマートフォンをご利用の方は、横画面表示にして以下のコンテンツをご覧ください。(縦画面表示で年表をスクロールすることもできます。)


菊池一族当主一覧(PDF 約2MB)

今日は何の日?菊池一族の記念日

平安時代

菊池一族歴史年表(平安時代)
西暦 年号

菊池のうごき

【 】内の数字は菊池一族の代を示す

日本のうごき
1070 延久2

[1]藤原則隆 大宰府の荘官として菊池に来る

則隆 京都より岩本に大宝山円通寺本堂を奉遷

1109 天仁2 [4]經宗 鳥羽院の武者所に出仕する  
  仁平中

このころ亀ヶ城に源為朝が居すると伝わる

このころ加恵八幡宮・加恵諏訪宮が建立される

 

1180

治承4

[6]隆直 平氏に反抗、大宰府を焼く(養和内乱) 源頼朝が挙兵
1182 寿永元 隆直 平氏追討使に攻められ、糧食が尽きて降伏する 1181 平清盛死す

鎌倉時代

菊池一族歴史年表(鎌倉時代)
西暦 年号

菊池のうごき

【 】内の数字は菊池一族の代を示す

日本のうごき
1185 文治元 隆直 菊池家の「日足紋」を「並鷹羽紋」に改める 平家滅亡 鎌倉幕府成立
1186 文治2 隆直 源氏軍に敗れて京都で義経に斬殺される

[5]經直 肥前で流鏑馬に出場し、落馬し死去

1192 頼朝征夷大将軍に
建久中 中原師員(後の竹迫氏)が合志郡の地頭職となる『肥後国誌』  
1221 承久3 [7]隆定 承久の変で敗れ、所領一部没収される 貞永式目制定
  文永中 [10]武房 円通寺に15町を寄付  
1274 文永11

武房 元寇で、博多に出陣する(文永の役)

 
    北条定宗・随時が元寇軍事催促の途上、田島天徳寺を再興する『合志川芥』・『肥後国誌』  
1281 弘安4 再度の蒙古襲来に一族で参戦する(弘安の役)

1293 鎮西探題設置

蒙古襲来絵詞できる

1304 嘉元2

[11]時隆 叔父と家督を争い、刺し違えて死ぬ

日置恒治が福本に千田聖母八幡宮を勧請する『肥後国誌』

 
元応中

東明慧日が久米に青原山寿勝寺(後の安国寺)を建立する(再興説もある)『肥後国誌』

 
1327 嘉暦2 大智、加賀国に祗陀寺開
1333 元弘3

[12]武時 鎮西探題を襲撃し討死(袖が浦の別れ)

鎌倉幕府滅亡

南北朝・室町時代

菊池一族歴史年表(南北朝・室町時代)
西暦 年号

菊池のうごき

【 】内の数字は菊池一族の代を示す

日本のうごき
1335 建武2 箱根竹下の戦いで[13]武重勝利(菊池千本槍)  
1336 延元元

武村、新田義貞軍に属し苦戦、大渡橋上で討死

武敏、足利軍と多々良浜(福岡)で戦うが敗れる

南北朝の対立
    武吉、湊川の戦で楠正成らとともに自刃する  
1337 延元2 武重、寺尾野城で挙兵し、合志幸隆を攻める

佐々木長綱が延暦寺の寺領奉行として大津真木村に下向、のち姓を合志と改める『肥後国誌』

 
1338 延元3 武重 「寄合衆内談の事」(菊池家憲)を定める  
    少弐頼尚、稗方原にて菊池勢と対戦する  
1339 延元4 久米の青原山寿勝寺が肥後の安国寺となる『肥後国誌』 安国寺建立令下される
1341 興国2 [14]武士 武重の死後、肥後守を継ぐ  
1344 興国5 [15]武光 合志幸隆から菊池城を奪還し家督継承

武光、熊耳山正観寺を建て、菊池五山制を定める

 
1348 正平3

懐良親王、征西将軍として菊池に入る

 
1351 正平6

大智禅師、聖護寺を出て玉名の広福寺に入る

 
1353 正平8

懐良親王、武光らを率いて筑後高良山に布陣する

 
1355 正平10 武光、懐良親王ら九州北部を抑えて、大宰府を占領 倭寇の活動盛んになる
1359 正平14

武光、懐良親王を奉じ、大保原(筑後川)合戦で勝利

1358 足利尊氏病没
1361 正平16 征西府が大宰府に移される(全盛時代)  
1362 正平17

武光、長者原の戦いで大友・少弐軍を破る

 
1367 正平22 [16]武政、肥後守となって、菊池城(守山城)を築く  
1368 正平23 懐良親王、武光らと東上計画(上洛)を決行し失敗 足利義満 将軍となる
1369 正平24 明の使者が征西府にきて、倭寇の禁止を求める この頃『太平記』できる
1370 建徳元 今川了俊(貞世)、九州探題となる  
1372 文中元 今川軍に征西府占領され、武光ら高良山へ退く  
1373 文中2 武光死亡か?  
1374 文中3

久留米の高良山にて武政死亡

[17]武朝 懐良・良成親王を奉じ、隈府に帰る

 
1375 天授元

武朝、今川了俊軍を水島の戦いで破る

懐良親王、征西将軍の職を良成親王に譲る

 
1377 天授3

武朝、肥前蜷打にて今川軍に破れて、肥後に退く

 
1378 天授4

武朝、阿蘇北の宮を勧請して、社殿(北宮神社)を建てる

武朝、良成親王らとともに今川・大友軍を詫麻原で破る

足利義満室町第に移る
1379 天授5

今川軍、肥後に入り、板井原に陣し守山城を攻める

 
1380 天授6

今川軍、台(水島)城を落とす 貞継、肥後守護となる

 
1381 弘和元 菊池本城、足利方の今川軍に攻められ落城する  
1383 弘和3 懐良親王亡くなる  
1384 元中元 武朝「申状」を吉野朝廷に差し出す『群書類従』  
1387 元中4 合志鑑峯、橋田寺を修復する『肥後国誌』  
1392 元中9

武朝、菊池に帰り、改めて肥後守護となる

南北朝が合一する

室町時代

菊池一族歴史年表(室町時代)
西暦 年号

菊池のうごき

【 】内の数字は菊池一族の代を示す

日本のうごき
1407 応永14 武朝死去[18]兼朝が家督を継ぐ 1397義満金閣寺建立
1419 応永26 蒙古・朝鮮軍が対馬を侵す 兼朝ら敵を撃退する  
1431 永享3

馬か岳(福岡)合戦後、兼朝[19]持朝に家督を譲る

 
1432 永享4 持朝、筑後守護職となる  
1446 文安3 持朝死去(兼朝死後2年目)[20]為邦が家督を継ぐ 1441 嘉吉の乱
1449 宝徳元 このころ菊池の文教盛んになる  
1452 享徳元 為邦、竺菴仲尖和尚を招き、江月山玉祥寺を建立する

この頃、玉祥寺このみやおどりが始められると伝わる

 
1456 康正2 合志隆門が飛熊に城館を築き移住する『合志川芥』

この頃、住吉日吉神社雨乞太鼓が始められると伝わる

 
1462 寛正3 足利義政、筑後守護職の半分を大友政親に与える  
1465 寛正6 為邦、筑後領奪回のため大友と高良山で戦い敗れる  
1466 文正元 為邦、家督を[21]重朝に譲り、重朝肥後守護となる 1467 応仁の乱起こる
1472 文明4 重朝、隈府に孔子堂を建てる  
1477 文明9

重朝、桂庵禅師を招き釈奠の礼を行う。

住吉日吉神社の坂本左近が合志氏と争い(紅花事件)社殿で自刃する『合志川芥』・『肥後国誌』

応仁の乱終息
1481 文明13

重朝、菊池で連歌一万句の会を催す。

 
1484 文明16

合志重隆が住吉日吉神社を北住吉(現在地)に再建、また南住吉古閑に池の上城を築き移る『合志川芥』

 
1485 文明17

重朝、相良為続と矢部・幕平で戦って敗れる

 
1493 明応2

重朝死去、「22」武運が家督を継ぐ

阿佐古武貞が福本聖母八幡宮を再建し、隈部忠直が棟札を記す『肥後国誌』

このころ合志隆峯が天台宗僧光玄院清正坊を斬り、崇ありとして御霊社前田神社を建立する『合志川芥』

 

1489 銀閣寺建立
1501 文亀元 武運、宇土為光に叛かれ、島原にのがれる  
1503 文亀3

武運、能運と改名する

能運、城・隈部の助けをかりて為光を破り、菊池に帰る

 
1504 永正元 能運死去、菊池家正統絶え、[23]政隆 跡を継ぐ

合志隆岑、住吉から竹迫に移り合志郡を支配『合志川芥』

 
1505 永正2 政隆家臣に追われ阿蘇惟長が肥後守護となり、菊池武経と称す  
1509 永正6 菊池政隆が菊池武経と久米原で戦い敗れて、安国寺で自刃する『合志川芥』・『肥後国誌』  
1511 永正8

詫磨武包が菊池氏を継いで肥後守護となる

武包、大友氏に追われて菊池を去る

この頃大友氏勢力拡大

  永正中 竹迫氏の豊後移住に伴い、合志隆岑が竹迫城に入り、合志郡の地頭職を継ぐ『合志川芥』・『肥後国誌』  
1515 永正12 焼失した安国寺が再建される  
1520 永正17 大友重治(義宗)、菊池義武と称して肥後守護となる

このころ、怒留湯氏が打越に入る