延寿から同田貫へ

延寿屋敷のイラスト延寿一族の晩年は、最盛期同様、菊池一族と運命を共にする形となりました。室町時代の終わり頃、菊池一族による領有が終わり、菊池が他家に侵攻されると、延寿村も事実上の崩壊を迎えたのです。刀工たちは、百姓に転化する者、農耕具を作って生活を繋ぐ者、条件の良い場所へ移転する者などに分かれて生き延びていきましたが、その中に、玉名に移り住んだ人々がいました。同田貫清國、正國(小山左馬介/さまのすけ*1、上野介/こうづけのすけ)兄弟です。

図:延寿屋敷のイラスト


延寿屋敷があったとされる菊池市の稗方に「同田貫(ずだぬき)」という地名があり、これを刀の銘に刻んで作刀していたようですが、それは彼らが菊池を去ってからも同様に続けられました。この兄弟にとっての大きな転機の一つに、当時の肥後大名・加藤清正との出会いが挙げられます。実戦志向の強靭さを高く評価した清正は、熊本城の常備刀として大量に同田貫刀を作らせました。清國・正國の名前の由来も、清正が自分の名前を兄弟に一字ずつ与えたからだとも伝わっています。菊池一族を支え、栄枯盛衰をともにした延寿鍛冶の誇りと技術が同田貫鍛冶に受け継がれ、再び時の為政者に見初められることで栄光を取り戻したのです。小山家は、菊池一族の七代隆定の後裔とも伝わっており、今は亡き先祖への想いにもひとしおのものがあったことでしょう。

「肥州菊池住同田貫正國」の写真明治時代、菊池一族の遺志を継ぎ、清正が惚れ込んだ同田貫刀は「折れず曲がらず同田貫」と謳われ、鉄の兜をも断ち斬る刀として一躍名を馳せることになりました。そのイメージは現在に至るまで様々な形で受け継がれ、『剛刀』として広く世に認められています。
*1:後の木下左馬介

図:刀「肥州菊池住同田貫正國」の写真 



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