鷹取城

鷹取城は別名を染土(そめつち)城ともいい、龍門・染土の集落から見上げた比高120メートルほどの急な斜面を登った丘の上にあります。代々原田氏の居城で、初代の城主は原田五郎と伝わっています。

標高は242メートル、周辺一帯は丘陵地で畑地が多く、城跡はその丘の端に位置する小山です。


 

鷹取城


▲鷹取城

小山の上面は、ひょうたん型をした6〜18×45メートルの平らな面になっていて、これを「削り落とし」と呼ばれる加工をした崖がぐるりと囲み、西側の壁面は高さが4メートルもあります。この高台になった部分を、1メートル弱の段差の階段状の地形が取り囲んでいます。麓には湧水があるので、水は豊富に確保することが出来たでしょう。

鷹取城略図


 

迫間川の上流に位置し、大友率いる豊後(大分)方面に備える重要な城ではあったものの、最前線には掛幕(かけまく)・市成(いちなり)の両城が、次の守備には元居(もとおり)・五社尾(ごしゃのお)城があるため、これらの城と菊池本城(守山城)の中間に位置する鷹取城は、直接敵の矢面に立つ位置ではなく、他の城との連絡もしやすい城であったと考えられます。

17代武朝の時代には、今川了俊(いまがわりょうしゅん)率いる北朝勢に菊池本城が落城させられた際、後征西将軍良成親王の避難先として選ばれたようです。本城に続く御座所「内裏尾(だいりお)」から『菊池浦(裏)』(深堀文書より)の比較的安全なこの城に親王を移したのでしょう。

また、城の一角にはこの地に来たという伝説のある鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)を供養した板碑が建っています。為朝はこの城からよく弓を射たと伝わっていて、遠く離れた「市野々」や「七坪」という集落(鷹取城から3〜4km程度)まで飛んだという伝承もあるようです。

※鎮西八郎為朝……源為朝。平安時代後期の武将で、為義の8男。体が大きく乱暴者であったため13歳の頃九州に追われ、鎮西八郎と称した。九州各地に伝説が残っている。

鷹取城イメージ


鷹取城(イメージ図)

 


 

 


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