正光寺城
菊池十八外城の一つで、加恵氏代々の居城です。加恵氏は鎌倉中期、菊池8代能隆の子、隆時が加恵と名乗ったのが始まりといわれています。
かつて、地元の人々は13基残っていた墓所(塚)のうち1基を城跡として顕彰していましたが、昭和40年代の土地改良で塚は消滅し、現在はその際に出土したという五輪塔(墓石)を一箇所に集めて新たに墓所を設け、それが現在の「正光寺城跡」となっています。
▲正光寺城跡
整備の際、火葬した人骨の入っていた壺や板碑や五輪塔などが出土しました。これらの人骨や壺は丁重に弔い、城跡の一角に拝祀されています。
この一帯は菊池川、迫間川に挟まれた水上交通の要所であり、その地の利からこの城が築かれたと考えられています。増永城、打越城、馬渡城、台城と連携し、玉名・山鹿方面から侵入する敵に対する最前線基地の役割を負っていたことが推測できます。
ただ、墓地の遺物は出土しているものの、城跡の遺構についてはまだ見つかっていません。加恵には正光寺、正元寺、買石寺という3つの寺があったと伝わっており、寺そのものが城の役目を果たしていたのではないかとも言われています。
なお、加恵には比較的しっかりした規模の船着場があったことが発掘調査でわかっており、菊池一族が軍事・経済の面から船着場を重要視していたこと、船着場のある一帯は周囲の土地よりも高台であったことなどから、この船着場の近くに城があったのではないかとする説もあります。また、付近には城主のものとも考えられる立派な五輪塔が残っており、この説の根拠の一つとされています。
▲正光寺城(想像図)