桜色の合戦図

懐良親王と武光

懐良親王が派遣された当時、九州の南朝方はまとまった勢力とは言えませんでした。そこで後醍醐天皇は、懐良親王を送ることで核を作り、一つの勢力を作り上げて九州を統合させ、最終的には都を奪い返すという壮大な計画を立てたのです。しかし現実には、懐良親王のお供は十数人程度のもので、武力面では完全に菊池軍に依存していました。一方で武光にとっては、南朝本部の代理として領地を与えられる親王の権限は、九州の武家を統率するために欠かせないものであり、2人は互いを補い合いながら戦い続けてきたのです。それだけに、武光を失った親王の精神的ダメージは深く、仏道に耽る日々が続きました。1375(天授元)年、ついに甥の良成親王に征西将軍職を譲って隠退。晩年は八女市の星野に移り住み、動乱で亡くなった人々の供養をしながら過ごしていたと伝わっています。

御松囃子御能

武光と懐良親王の絆の証は、現代でも見ることが出来ます。国の重要無形民俗文化財に指定されている御松囃子御能(菊池の松囃子)は、遠い都からやってきた親王を慰めるために、武光が催させたのが始まりと言われており、元来新春を祝う年頭の祝儀として行われていたものが、現在は菊池神社の秋の例大祭として、毎年10月13日に行われています。素朴な舞の振りや瑶(うたい)の調子は現存している松囃子の中でも古風なもので、室町時代以前の形式を保っているようです。菊池の人々は、菊池一族が亡びた後もその遺徳を敬い、この舞を忠実に守り伝えてきました。その一途な想いが、今日の私たちに、親王が観覧したであろうそのままの舞を見せてくれるのです。

松囃子


▲御松囃子御能

菊池五山と正観寺

菊池五山と正観寺も、現在に残る武光の足跡です。菊池五山は、鎌倉幕府の五山に倣って武光が定めたもので、輪足山東福寺、無量山西福寺、手洗山南福寺、袈裟尾山北福寺、九儀山大琳寺の五つの寺を指します。更に武光は、この五山の上に位置する寺(別格)として熊耳山正観寺を建てました。正観寺には、かつて武光が父・武時に従って博多合戦へ赴いた時、まだ少年だった彼を敵の手から保護してくれた聖福寺(博多)の和尚・大方元恢(たいほうげんかい)を住職として招いています。

 武光の墓はこの正観寺の境内にあります。墓石は江戸時代に建て直されたものですが、傍らにそびえ立つ樟(県指定天然記念物)は樹齢600年を超え、武光の墓木と伝わっています。

武光の墓


 

菊池神社

 室町時代の終わり頃に歴史の表舞台から去った菊池一族が、再び大きな注目を浴びるようになったのは、江戸末期です。天皇を立てて幕府を滅ぼすという尊皇攘夷の思想のもと、かつて鎌倉幕府や室町幕府に対抗した菊池一族は、尊王の志士たちの憧れの存在になりました。明治時代に入るとその熱は一層高まり、古来国家に功労のあった人々を祭る「別格官幣社」として菊池神社が創建。菊池の本城であった守山城跡に、12代武時、13代武重、15代武光はじめ一族の26人が祀られることになりました。

 現在、桜の名所として知られる城山公園ですが、実はこの桜が初めて植えられたのは、菊池神社の建立時でした。南朝の本拠地だった吉野は古くから桜の名勝として名高く、南朝に尽くした一族の象徴として、城山は一面の桜で覆われたのです。

無常な歴史の流れのなかで、武光も懐良親王も、やがて菊池一族そのものも、儚く散り去っていきました。しかしそれでも、満開の桜が咲き乱れるように九州中を南朝の色に染め上げ、生きた証を時代の流れに刻み込んだのです。

 菊池一族低迷の時代に、綺羅星の如く歴史の表舞台に踊り出た、不世出の英雄・菊池武光。九州制覇を成し遂げた彼の偉業は、現在も燦然と輝きを放ち続けています。

神社の桜


 


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