10代 菊池武房

九州武士の憧憬を集めた、悲運の実力者。菊池武房(1245-1285)

10代当主。9代隆泰の子に当たります。

文永の役、弘安の役と呼ばれる2度の元寇で大きな活躍を果たしました。その雄姿は、元寇の有様をつぶさに描いた「蒙古襲来絵詞」に見ることができます。この絵詞は肥後の武士・竹崎季長が、この元寇における自らの活躍と、その軍功を鎌倉に訴えた様を絵詞として残したものです。

一騎打ちが戦の流儀であった日本軍は、蒙古軍の集団戦法や新兵器に翻弄されていたのですが、そこに立ちふさがり、蒙古軍の進攻を遮ったのが、菊池武房率いる菊池軍をはじめとした軍勢でした。この時30歳の武房は、蒙古の大軍の中を駆け回って戦い、首を討ち、屍の中から身を起こしたと言われるほどの奮闘を見せました。


敵が退却した後、武房は切り落とした首を二つ、太刀と長刀の先に刺し貫いて側仕えに持たせて戦場を引き上げます。「蒙古襲来絵詞」の主人公・竹崎季長に出会ったのは、この時です。戦場から帰ってきた武房を見て、季長はその凛々しさに感嘆し、思わず名前を聞いた、とあります。季長はその後武房に自分の先駆の証人になってほしいと頼みました。武房の活躍を見て取って、この人の証言なら信用深いだろうと考えたのでしょう。

また、弘安の役の記述には、元寇対策で作られた「生の松原」の防塁の上で待機する菊池の大軍勢の様子が描かれています。いずれも豪華な甲冑に身を包んだ菊池一族の姿は、たった5騎で蒙古軍に臨む季長にとってはとてもまばゆいものに見えたことでしょう。この時も、季長は武房に手柄の証人になってほしいと依頼していますが、その理由として、「多くの人々の中でも文永の役に名を上げた菊池武房」に頼みたいという記述もあり、既に武房の武勇は九州武士の間に知られていたことを示しています。

菊池武房ところが、これほどまでの活躍とは裏腹に、幕府の恩賞は甲冑一式とわずかな領土のみ。元寇に出兵した武家の中でも特に少なかったのですが、これは元寇後に起こった幕府の内部抗争で、負けた側に加担していたのが原因とも言われています。

領土回復に向けて大きな犠牲を払って奮戦した報いの少なさは、その後の菊池一族の中に、大きな反幕感情を植えつけることになったのでした。


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