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渋江紫陽

更新日:2016年3月3日

渋江 紫陽(しぶえしよう、1719-1792)

 

 渋江紫陽は1719(享保4)年、隈府で生まれ、名を公豊(きみとよ)と言いました。少年の頃から学問が好きで、14歳の頃に水足博泉(みずたりはくせん)に、その後は山鹿の加々美鶴灘(かがみかくだん)に師事し、友人である僧の玄密(げんみつ)と一緒に山鹿までの道を通いました。当時は武芸が盛んで、机に座って本を読むのは怠け者と見られがちでしたので、人に気付かれないよう日暮れに自宅を出て、夜が明けぬうちに帰宅したと言います。

 2人の師の教えには、共通して「古学(儒学の一派)」と「菊池一族の顕彰(業績を讃えて世間に広めること)」という柱がありました。紫陽自身にもその2本の柱は受けつがれ、紫陽以降の菊池の文教の基礎になりました。

 紫陽は30歳の時に、藩校「時習館」より6年も早く、私塾「集玄亭(しゅうげんてい)」を創立し、閉鎖されるまでの45年間に300人以上がここで学びました。紫陽が教えた「古学」は藩と方針が異なっていたので藩には仕えませんでしたが、藩の学者たちは時折紫陽を訪ねてきて、「城北の隠君子」と呼んで大変尊敬していました。

 1779(安永8)年、61歳の時、紫陽はもう1つの念願を果たします。菊池氏の15代武光の墓碑建設です。今でこそ、菊池市のシンボルとも言うべき銅像で有名な武光ですが、当時は長年室町幕府に抵抗した武将のために立派な墓を立てるのはとても難しいことで、紫陽が立ち上がるまでは荒れ果てて雑草の中に埋もれていたのです。紫陽は養子松石(しょうせき)、弟子宗伝次(そうでんじ)と協力し、正観寺に武光の忠節を讃えた墓を立てました。

 紫陽は1792(寛政4)年に74歳で亡くなりましたが、菊池文教の基礎を築いた功績が認められ、大正4年、従五位が贈られました。

武光の墓▲紫陽が建てた菊池武光の墓碑


 


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